大山道3
 府中から多摩川を渡り、関戸、小野路、木曾、古淵、麻溝、勝坂、磯部の渡しに至り、猿が島へ渡って大山へ向かった道である。

 古淵の龍像寺坂で当麻道と大山道に分かれるが、大山道は参詣の人々が多く通るため同者みちと呼ばれていた。また、「磯部道」、「木曾道」などともいう。

 駿河国(静岡県)の久能山から徳川家康の遺骨を日光東照宮へ移すに当たって、徳川幕府によって県立新磯高校近く、麻溝台、木曾、小野路に一里塚が築かれた。

 一方、原町田方面から幸延寺橋にて境川を渡り、幸延寺坂、鵜野森、文京から’こもれびの森’付近で同者みちに合流する道があった。


磯部頭首工
 磯部の渡しは、いまは磯部頭首工(堰)となっている。磯部頭首工は昭和三年六月左岸用排水改良工事として完成した。干ばつから救うため水を堰きとめ、用水路に水を導いた。
用水路は近隣五ヶ村はじめ茅ヶ崎まで続いている。

 大山参詣者は磯部の渡しで対岸の猿が島へ渡り、中津川の才戸の渡しへと向かった。

問合先:文化財については、相模原市文化財保護室 042-769-8371



小野路の道標 小野路の大山道 小野路一里塚
おおやまみちの道標。右側面に「至 厚木」、左側面に「至 府中」と書かれている。
小野路一里塚から大山へ向かう道。左側は町田・野津田公園である。
おおやまみち小野路一里塚。一里塚は元和三年(1617年)徳川家康の遺骨を改葬する時に造られた。

 江戸幕府が江戸から地方に向かう五街道(東海、中山、奥州、日光、甲州)を造らせたが、一里塚はこれらの路程標識のために一里の間隔で道の両側に築いて榎を植えたものである。

 この一里塚は元和3年(1617年)徳川家康の遺骨を日光に改葬するにあたり造られたものと伝えられており、奥州に通じる大道で江戸表を通るより近道で安全であったといわれている。

木曾一里塚
木曾「覚圓坊」横の道向かいにある。
塚の上には武州御嶽山の大口真神の小祠がある。

同者みち道標 幸延寺橋 幸延寺
同者みち。「北 木曾方面」、「南 磯部方面」と書いてある。大野台小学校脇を通り麻溝、勝坂方面に向かった。
一方、原町田方面からの参詣者は幸延寺橋で境川を渡り、相模野台地へと登っていった。
幸延寺。天正18年(1590年)の小田原城攻略の際に、この旧家の先祖が埋めた古銭が収蔵されている。

文京信号横の道標 道標となった不動明王 同者みちへと続く
「文京」信号近くの道標。「北東 町田方面」、「南西 磯部方面」と書いている。
不動明王の石仏は大山参りの人々の道しるべであった。
幸延寺橋、鵜野森からきた参詣者はこの道を道者みちへと向かった。

馬頭観世音 八幡坂下の地神塔 中講村の道標
勝坂を降ったところにある馬頭観世音の石碑。「安政4丁巳年正月吉日」、「右勝坂原町田方面」、「左大沼木曾方面」と刻まれている。
磯部八幡宮前の坂下には地神塔、供養塔があり、旅の途中で倒れた人々の供養していた。
磯部八幡宮を降ったところにある道標と石碑。「東 木曾、南 大山、北 八王子」と刻まれている。

下磯部の道標
 磯部の渡しへ案内する下磯部の大山道標である。文化10年(1813年)4月に建立されたという。表文字は「右大山道」、側面には「□化十年癸酉 林鐘建焉」と刻まれている。江戸幕府は神社仏閣詣りに限って往来を認めていたので、大山詣でが盛んになった、という。

 道標の頭は欠けてしまっており、昔は奥まったところにあったが、道幅が広がり道路脇にきてしまったそうである。

磯部の渡しへの道 磯部の渡し道標 磯部の渡舟
右側からきた人々は右に曲がり奥の方へ磯部の渡しに向かった。写真左下に下磯部の道標が見える。
磯部の渡しの道標。渡し場は頭首工(堰)となり、五ケ村用水の水源として利用されている。
磯部民俗資料館に保存されている渡舟。この舟で人も馬も運んだそうである。

参考文献:相模原市教育委員会「相模原の文化財」、「さがみはら風土記稿」、特別展「”道”再発見」及び現地案内板

        All Rights Reserved NPOシニアネット相模原(SNS)