大山道2
 大山参詣者は、八王子から橋本を通り橋本の棒杭にやってきた。
そこから塚場、下九沢、四ッ谷、堀の内を経て田名に至る道を八王子道とも大山道と呼ばれていた。

 橋本の棒杭(ぼうぐい)はあつぎ(当麻)方面と田名方面への分かれ道であり、地元の人々によって守られてきた貴重な遺跡であり、市登録文化財となっている。

 田名では、望地の渡し、久所(くぞ)の渡し、滝の渡しで対岸の六倉、小沢、葉山島に渡り大山へ向かった。

田名の大山道
 塚場からゆるかに降ってきた参詣者は、田名坂上からこの坂道をかけ降って相模川へと向かった。

 田名は、鮎漁が盛んであり、また、田名八幡宮の9月の大祭では境内で獅子舞を奉納、新年早々の小祭では「的祭(まとまち)」が奉納される行事があり、水郷田名として賑わった。

問合先:文化財については、相模原市文化財保護室 042-769-8371



橋本の棒杭 新道坂 下九沢大山道の道標
橋本の棒杭(ぼうぐい)。「右大山みち」と書いている。あつぎ(当麻)方面と田名方面の分かれ道である。
塚場坂上から下九沢へ向かう新道坂。相模川へ向かってゆるやかに降っていく。
道はあか坂、しろ坂と続く。
下九沢の大山道標。多くの大山参詣者が通るので宿場として賑わったそうだ。

 ここに立てられている昭和46年の石碑によると、この庚申塚は、もとここより330メートル北方にあった。場所は武州甲州方面よりの大山街道と 川尻八幡宮から上溝八幡宮(亀が池八幡宮)へ至る参道の交叉地点であった。昭和初期道路拡張のため僅か北側へ移した際発掘したという。

 庚申塚は割れかけておりベルトで締められている。


下九沢大山道の道標
あか坂の石碑 田名大山道の道標 田名神社
上四ッ谷のあか坂の石碑。昔は赤土の坂であった。田名の渡しへは後、半里ほどである。
田名坂上を降ったところの道標。「旧大山道」とある。左側の道標には「旧々大山道」と刻まれている。
田名八幡宮。市指定民俗文化財の的祭(まとまち)が奉納される。

望地の渡し上の地神塔 南光寺の石仏 望地の渡し
左側の石碑には「地神塔」、右側の石仏には「□正徳元辛卯歳十月五日」(1711年)と刻まれている。ここから望地の渡しへと降っていった。
地神塔の前にある南光寺。多くの古い石仏がある。参詣者を供養したもののようである。
久所の渡しの下流1キロメートルほどにあり、六ツ倉地区に渡った。江戸時代中頃久所の渡しができるまでは盛んであった。

久所の渡し 烏山用水路 滝の渡し
久所(くぞ)の渡し。対岸の小沢へ渡り、大正時代まで続いた。後ろに見えるのが高田橋である。
烏山用水路。江戸時代末期に造られたもので多くの参詣者は見られなかったかもしれない。
久所の渡しの上流1キロメートルほどのところにある。対岸の葉山島へ渡った。

滝の渡しの舫舟 小沢城跡 小沢 諏訪神社
滝の渡しの下に舫っていた舟。こんな舟で渡ったのかもしれない。
小沢古城址。当地の豪族小沢氏の館跡である。平安時代から鎌倉時代に活躍した横山党の一族である。
小沢 諏訪神社。高田橋脇の小沢古城址跡にある。

高田橋を渡ったところにある案内板。

 小沢渡船場 跡

 小沢渡船場は、古くよりひらけた交通の要所であった。とりわけ、中世のころ大きな勢力をもっていた小田原の北条氏にとって、この渡船場は、関八州掌握の重要拠点であった八王子の滝山城との連絡や軍兵の往来に欠くことのできない存在であった。
 そのころ小沢渡船場は、相模川の川西の十か村で船二艘をもち、舟渡しを行うことを北条氏から差し許されていた。
降って、天保の頃(1830〜44年)につくられた新編相模国風土記稿には「渡船場 相模川ニアリ 巾三十間許 武州八王子路ニ係ル所ナリ 船二艘ヲ置 高座郡田名村ト組合持」と、この渡船場について記している。

愛川町教育委員会

参考文献:相模原市教育委員会「相模原の文化財」、「さがみはら風土記稿」、特別展「”道”再発見」及び現地案内板

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