文明8年(1476年)、上杉顕定の家来長尾景春が主君に叛いて兵を起こした際、磯部城にこもっていた相模の武士たちはこれに味方して戦ったとされている。
この磯部城は、 長尾景春の乱に際し、景春方の相模の拠点である「小沢(こさわ)城」(愛川町)の支城として、文明9年4月から翌年にかけて急遽築城された「臨時的要害・拠点」と位置付けられている。
文明10年、太田道灌を大将とする関東管領の上杉氏によって陥落された短命の磯部城の全体像についてはなお解明されていない部分が多いものの、近年の発掘調査によって堀跡が確認され、この土塁は
市の文化財史跡に登録されている。
所在地:相模原市磯部90番地ほか
交 通:JR相模線下溝駅から約500メートル
問合先:文化財については、文化財保護室 042-769-8371

土塁は、相模川の東岸から段丘崖に向かって伸びる「東西60メートル、幅10メートル、比高2メートル」の規模で残存している。
その東端にも「南北30メートル、幅8メートル、比高1メートル」ほどが残存しており、前者と合わせてL字状を呈している。
土塁の一帯は、現在、畑や宅地などの民有地が広がっている。地元の伝承によると、現存する土塁の北側に接して深さ2メートルぐらいの堀が存在していたとも言われている。
川寄りの西端部分は古くからの相模川の浸食によって削られ、遺構の面影はない。本来の土塁は、西側の川方向へさらに伸びていたと考えられている。
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相模川寄りの北西方向から見た土塁の盛り上がり。 |
土塁の西端は「相模川散策路(さがみグリーンライン)」。 |
土塁に積まれている直径30センチメートルほどの石。 |
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左手下流の厚木にある溝呂木城では、景春の被官人・溝呂木氏が道灌と対峙した。 |
相模川に面して右手に小沢城、左手に溝呂木城のほぼ中間点に位置していた磯部城。 |
右手上流の愛川町にある小沢城では、景春の傍輩・金子掃部助が道灌と敵対した。 |
参考文献:相模原市教育委員会「相模原の城館址」、「相模原市史」ほか |